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原町製紙について

3.原町製紙創業開始時の周辺の動向
 江戸時代には、東海道を「原宿」から西へ、吉原宿、蒲原宿といわゆる「三原」と呼ばれたうちのひとつ「吉原宿」周辺地域も明治時代になり、時代のながれがもたらした宿場経済の解体の影響を受けて、新たな産業を興す試みがなされた。その中でも中心的なものが三椏栽培や和紙漉きなどであった。この地域の和紙漉きは、紆余曲折を経ながらやがて機械抄きの製紙工場に発展していった*③。この時代の富士市域の製紙工場のうち、実は原町製紙と関わりの深い製紙工場があった。原田製紙である。
 原田製紙は、地元有志の資本にもとづき明治28年に当時の原田村で滝川を水力源として操業を開始した、富士市域最初の全国的にも先駆けとなった機械抄き和紙工場である、
 当初は、藁や反故紙などを原料に半紙を抄いていたが、古布と古網に粘剤を加えてナプキン原紙を抄造するようになった。そして、明治36年には原田村に富士ナプキン合資会社を設立し、原田製紙で抄造されたナプキン原紙を印刷加工するまでになった。だが、抄紙機でナプキン原紙を抄くことに不慣れだったことや、当時ドイツからの輸入品との価格・品質競争を繰り広げていたことなどから苦心の連続であったという。実は、この原田製紙が経営不振の時期に支援の手をさしのべて軌道を回復した人物こそが、原町製紙の創業に尽力した益田稔であった*④。益田のこの時の経験が、原田製紙創業の数年後に誕生した原町製紙の経営に生かされたことは想像に難くない。当時の文献資料を調査した範囲では、益田が原田製紙時代に得たことを原町製紙の経営にどのように生かしたのか具体的な記述はこれまでのところ見当たらないが、大正2(1913)年に益田が原町製紙の社長職を香谷に譲り、秋山忠平、鈴木東海夫、渡辺利作らと富士市域の当時の岩松村松岡に原町製紙の分工場として東海製紙株式会社を設立した(この会社洋紙を中心に生産したが、残念ながら大正時代の末期に全焼したという)。この動向からも益田が手漉き和紙の時代から紙の一定の知識や技術をもっていた岳南地区の地域性に着目してい、製紙業を岳南地区の近代産業の先駆けにしようとした姿勢がうかがえるのである。
 このような益田稔の業績について、長年駿河郷土史研究会の会長や富士市立博物館協議会長などを歴任した鈴木富男氏は、著書『紙の国ふじ百年史』の中で、「コッピー紙などの薄葉紙を抄出して岳南紙業界に新分野を開いた原田製紙及び原町製紙の順調な発展は地域の資本による中小工場の見本として、岳南製紙工業の将来の方向を決定づける基盤をつくったものとして大きく評価すべきである。」と述べている。
 さらに、その後、原田製紙がナプキン印刷輪転機などの技術改良に成功し、原田製紙とつながりのあった佐野熊次郎によって明治38(1905)年、旧吉原宿の本町通り沿いに佐野熊ナプキンが設立されるに至った。そして、多色彩色印刷されたナプキン紙は、輸出され海外の品評会でも入賞するほど好評を得たという*⑤。興味深いことに昭和の時代に入り、この佐野熊ナプキンの創業者である佐野熊次郎の名前が、『全国製紙工場綜覧』(昭和10年発行)の原町製紙工場の欄に工場長として登場するのである。ここで、同書から抜粋してみることにする。

 静岡県(駿東郡) 原町製紙工場 静岡県駿東郡原町 創立明治三十三年四月
 資本金 二〇,〇〇〇円 代表者山本福三郎 抄紙機 第一号円網ヤンキー式
 網巾二十三寸 完成大正六年九月 主製品 帽帯原紙 複写紙原紙 製造能力
 年産六五〇,〇〇〇円 主要原料 パルプ、マニラ麻、反故類 工場長佐野熊次郎
 従業員概数三十六名 備考 和紙同業會加盟

 ちなみに、同書の原田製紙の欄の代表者の項目にも「取締役社長 佐野熊次郎」という記載が見られる。さらに、昭和16年発行の『日本紙業大観』の原田製紙の備考欄には、「社長佐野熊次郎は先代を襲名したのであるが、青年実業家として人望厚く、現代富士機械製紙工業組合顧問(以下略)」と紹介されている。これらのことから、『全国製紙工場綜覧』に記されている佐野熊次郎が、当代か先代かは今後の調査が必要であるが、いずれにしても昭和10年代に佐野熊次郎なる人物が原町製紙と原田製紙の経営に深く関与し、益田稔が両会社の重鎮であった代からの結びつきが続いていたことが明らかである。また、原町製紙、佐野熊ナプキンともに製品が国外に輸出され、博覧会で入賞するほど技術や品質が高く、それを裏付ける特許をもつほどの、当時地方にあった製紙工場として、特筆に値するほどの存在であったといえよう*⑥。また、こうした特許を申請するほどの技術改良や国外博覧会に出品することで一定の評価を得て、輸出のプラス材料にするといった企業としての共通の戦略を両会社がもっていたことの背景には、それだけ両会社の情報交換や情報共有が日頃から行われていたことが推察される。

4.原町製紙の展開
 筆者は、今回の調査の過程で、以前原町製紙の重役を歴任した山本幸男氏の聞き取り調査を行った。その際、山本氏のご協力を得て、いくつかの資料を提供していただいた。
 原町製紙の比較的古い時代の資料としては、国外博覧会や輸出向け製品の契約書、コッピー用紙*⑦、コッピー用紙のレッテル紙、巻紙テープ、時代が新しいものでは四角型のトイレットペーパーの包装紙などが残されている。
 山本氏の話によると、まず、原町製紙の創立者の益田稔氏は進取の気質に富み、国内の企業に先駆けて、アメリカから和紙の機械抄き用のマシンを輸入した。この背景には、益田稔とともに原町製紙の創立に携わった香谷志満男が外国商務館に勤務した経験をもっていたことも見のがせない。また、独自の技術改良にも努め、昭和40年には巻紙切りの特許の実用新案登録を行っている。実は、紙を平板ではなく、巻き取りタイプで生産することは、効率的で便利性が高かった。前述した佐野熊ナプキンでも徳治に技術改良した印刷輪転機によって、平板印刷に比較して生産性を上げることができたのである。原町製紙は、輸出用のコッピー紙の生産においても巻き取りスタイルの手法を生かしている。
 海外経験のある香谷の存在は、原町製紙が軌道にのった後に、国内外の博覧会に何度か製品を出品して品質のよさをアピールして輸出の機会を広げたことについても関係してくる。「1905年アメリカのポートランド博覧会で金牌、1909年シアトルのアラスカユーコン太平洋博覧会で金牌、1910年ロンドンの日英博覧会で金牌、明治45年全国紙業共進会で銀牌、大正11年全国紙業博覧会で金牌を受けるなど紙の’メダリスト’として海外や国内に知られ、たくさんの賞状が会社の業績として今にも伝えられている。」*⑧ほど、国外の製紙業界の動向についてしっかりとした認識と情報をもっていたことがうかがえるのである。
 現在、沼津歴史民俗資料館には、当時「紙のメダリスト」と呼ばれたこの原町製紙が獲得したメダルや賞状などが保管されており、海外においてもその品質が高く評価されていたことがうかがえる*⑨。
 このうち、1909(明治42)年アラスカユーコン太平洋博覧会のメダルは直径7.1cm、厚さ0.5cmで女神や原住民、開拓者がモチーフのデザインになっており、その賞状は縦39.7cm横50.6cmで、英文で原町製紙の紙製品が金賞を受賞したことが記載されている。また、1910(明治43)年ロンドンの日英ロンドン博覧会の金メダルは、直径5cm、厚さ0.3cmで、表面には日本人女性と英国人女性、裏面には日本の甲冑武士と西洋の甲冑騎士のデザインが描かれている。そして、この博覧会の賞状は縦39.7cm、横69.5cmで、原町製紙合資会社がコッピー紙で金賞を受賞したことの記載があり、額装されている。
 ちなみに、山本氏宅には『アラスカ、ユーコン太平洋博覧会出品協会事務報告』(1909年)と『日英博覧会出品協会事務報告』(1910年)の複写が残されており、原町製紙合資会社の紙製調帯及び巻き取りコッピー紙、ナプキン紙類などが出品されたことが裏づけられる。
 また、山本氏宅には、大正時代に原町製紙と横浜にあった米国貿易会社(輸出部)との間に結ばれた契約書(副)が残されていた。和文と英文の一通ずつで、大正15(1926)年3月2日に「原巻き取り紙」の標準一等紙を2000本(巻紙1本につき1円54銭、巻紙1本の重さは28オンス)の取り引きをしたことが表記されている。この他に、同会社関連では、昭和12年7月11日付けの原町製紙に宛てた品代金の送付書があり、1本の単価が7.20円の製品120本分で合計864円を住友銀行の小切手で送付したことが明記されており、当時の輸出取り引きの一端をうかがい知ることができる*⑩。
 さらに、輸出用の巻き取りコッピー紙とそのレッテルも残されている。コッピー紙は抄き跡が透き通って見えるような薄さで、適度な丈夫さがある。レッテルの方は、カラー色の富士山のデザインで「巻取コッピー紙 HARAMACHIPAPERMILL SURUGA JAPAN」の文字とMという文字が記載されている。昔から富士山は「日本のシンボル」になぞらえることがあるが、富士を仰ぐ原地域にある製紙所にふさわしいピーアール性の感じられるレッテルである*⑪。
 ところで、前述した『全国製紙工場綜覧』(昭和10年)の中に、原町製紙と同じ駿東郡原町の製紙工場として、合資会社九香製紙所の名前が登場する。創立は原町製紙と同じ明治33年(月数では、原町製紙の方が2月遅い)である。以下「資本金は五〇,〇〇〇円、代表者 香谷てい 抄紙機 円網ヤンキー式 網巾三十寸 完成大正五年一月 主製品塵紙各種 製造能力 年産四〇〇,〇〇〇円 主要原料マニラ麻、反故紙 従業員数三〇名」となっている。この中で、香谷ていという名前が出てくるが、原町製紙の創立に携わった香谷志満男と同じ名字である。どのようなつながりがあったのであろうか。いずれにしても原地区に同時期に創業された製紙工場として何らかの関連や提携などがあったことが考えられる。
 ちなみに、今回取材調査に応じてくださった原町製紙に深く携わった山本幸男氏は、香谷てい氏と親族の関係にあるという。昭和30年代に原町製紙の社長であった山本幸多郎氏は、原町製紙所を益田稔とともに創立した香谷志満男の義弟になるという*⑫。原地区に明治30年代のほぼ同時期に複数の機械抄きの製紙会社が設立されたことは、製紙業が地域にとって有力な近代産業として注目されていたことがうかがえる。