• ~紙の柔らかさと柔軟な姿勢とお客様のやわらかな笑顔を想像する~

原町製紙について

5.原町製紙以外の原町内の産業の動向
 『原小百年史』(沼津市立原小学校)にもふれられているように、原町のシンボル的な存在であった原町製紙の他にも近代以降いくつかの産業がおこった。まず、製紙関連としては、明治時代における輸出産業紙のひとつであった紙ナプキンを生産していた奈木ナプキンがある。『日本紙業綜覧昭和12年版』(王子製紙)によると、紙ナプキンは、明治20年代に国外から入ってきたが、その後、マニラ麻を原料にしたり、革紙をまねて紙に皺をつけたりすることによって、国内でも紙ナプキンの生産が始まった。日本製の紙ナプキンは、紙に皺が入っていることから、化粧時に額の脂肪分がとれやすく、安価であったことからアメリカなどに輸出されるようになった。昭和10(19360)年頃には、紙ナプキンの油種はおよそ50ヶ国、輸出額は28万円ほどになったという。また、国内においても生活様式の洋風化が進む中で、料理店や食堂、カフェの営業用のみならず、化粧品や食器、果物の包装や食べ物(水菓子)の下敷きなど家庭向けの需要も徐々に増していったという。紙ナプキンの種類もカフェ(喫茶店)用の唐草や花模様のついたものをはじめ、飲料水の瓶の蓋の包装や理髪店の首巻き、紙人形の材料向けの物など、多様であった。このような時代のながれを背景にして、奈木ナプキンも創業を開始した。奈木ナプキン工場の詳細が分かる資料は、今回の調査では見つからなかったが、かつて全国に知られた原の名庭園である「帯笑園」に関連した資料の中に興味深いものがある。それは、帯笑園の訪問客などを記録した『帯笑園撮録』(2015年現代語訳発行)である。この『帯笑園撮録』の中の明治33年3月19日の項に、「従四位 徳川頼倫」来園の折に、金、大箱のカステーラを賜ったお礼として、帯笑園の所有者である植松家からは、当時の地元の特産品であった紙製ナプキンを献上したとの記載が残されている。原町製紙の設立は明治33年2月になってからなので、この明治33年3月という時期は、原町製紙が誕生して間もない時期のことになる。ここでいう紙ナプキンが、原町製紙以外の奈木ナプキンの製品であるのか、原地区内の他社のものであるのかは、はっきりとしない。また、ナプキン原紙をどのように調達していたのかという疑問が生じる。ちなみに、この後でふれる、明治時代後半からナプキン原紙を大量生産していた原田製紙は、この記載時期の5年前に創立していて、関連する富士紙ナプキン会社は、この記載時期より遅れて明治36年に生産を開始している。この記載に登場する紙製ナプキンがどこでつくられたものなのかについては、これからの調査課題のひとつである。
 当時、近隣の富士市域にあった原田製紙は、国内有数の紙ナプキン原紙の生産工場であった。圓網ヤンキーマシン4台を設置し、昭和10年頃の製造高は、およそ4億8千万枚に達していたという。この原田製紙の創業は明治27年であるが、先述したように一時経営が不振になった時に原町製紙を創立した益田稔氏が立て直しに尽力したことが知られている*⑬。奈木ナプキンの創業のいきさつや中心人物については、今後の調査課題のひとつであるが、原町内にナプキン原紙のことにくわしい益田の存在があったことが、有形無形の影響を与えていたことが推察される。富士市の著名な郷土史家であった故奈木盛雄氏の話によると、若い頃に親族筋のこのナプキン工場を訪ねた時に、紙ナプキンに皺をつけるために、職人たちが紙ナプキンの上に座って力を加えていたことを記憶しているということであった。また、先述したように当時原田製紙と連携する形で、富士市域で紙ナプキン加工を営んでいたのが、佐野熊ナプキンである。この佐野熊ナプキンを明治38(1905)年に創立したのは佐野熊次郎であるが、昭和10年頃には原田製紙の代表者に就任したことからも、ナプキン原紙生産とナプキン加工紙生産との密接な関連性がうかがえるのである。
 後年、奈木ナプキンで生産されたという巻紙(紙テープ)と紙製コースターが、奈木ナプキンの工場が近くにあった、今回取材調査にご協力をいただいた山本氏宅に残されている。このうち、巻紙は植物の葉と実をあしらった柄で赤と青の2色で印刷されている。筆者は以前、佐野熊ナプキンの調査に取り組んだ時に、これと同じ柄の巻紙を見たことがある。奈木ナプキンと佐野熊ナプキンがどのようなつながりをもっていいたのかは定かではないが、前述したように、原町製紙の創立の中心人物であった益田稔は、ナプキン原紙を生産した原田製紙の経営にも関わった時期もあった。したがって、原田製紙で生産されたナプキン原紙を使用していた佐野熊ナプキンと、原町製紙のナプキン原紙を使用したであろう奈木ナプキンとの間で何らかの情報交流や製品についての提携などがあったことが考えられる。
 さらに、原地区の当時の産業として注目すべきものは、家内工業的ないわゆる「ハンカチ業」(ハンケチ業)である。原町の歴史・文化を長年研究している郷土史家の望月宏充氏によると、明治時代後期から昭和30年代初期頃を中心にして盛んであり、宮口商店や殿岡商店などをはじめ、製品を国内のみならず、海外に輸出するところもいくつかあったという。望月氏が所有する『東駿ニュース』(かつての原地区内をテリトリーに発行されていた新聞)には、「原町特産ハンケチ業の現況」をテーマにした記事が4回にわたり特集されている(昭和30年12月12日号~昭和31年1月1日号)。これらの資料によると、殿岡ハンカチ工場や鈴吉商店、植松工場、大竹工場などの複数の業者名が登場しており、原町内にはおよそ20軒のハンカチ業者があったことがうかがえる。その中には、国内向けのものや、豪華なレース模様の輸出向けのものがあったという。また、この記事をまとめた寿山生氏によると、ハンカチ(当時原地区では「ドロンオーク」と呼ばれていたが、もともとは、ヨーロッパを中心に行われていたテーブルクロスやハンカチなどに用いられた白糸刺繍を意味する「drawn work」に由来する。)は、明治時代中期から太平洋戦争前にかけて、原町を中心に岳南地方人に家庭経済の一躍を担うものであったが、戦争で中断。戦争後は、従来の手がかり手工業を中心にしたドロンオークから、機械手工業のカットオークに移行し、家内工業的なドロンオークはじょじょに姿を消していった。また、戦争中、鈴吉商店は商工省に加工技術の保存申請を求めたが、戦後の経済状態と産業文化の急激な発展によって、衰退の一途をたどったという*⑭。
 筆者はかつてこのドロンオークを家業としていた時期のある原在住の宮口唯幸氏宅に調査にうかがったことがある。近隣の原町内外の主婦たちにシンガーミシンを貸し出したり、織られた白布から横糸をぬきながら、四つ葉のクローバーや花柄の模様をつくったりしていたそうで、宮口氏のところに回収された製品を畳一畳ほどのケヤキの一枚板の上で、一枚一枚チェックした後、国内向けや輸出用に出荷した。現在は、細やかなレースがほどこされたハンカチ製品とお得意先に配布したという店名の入った小皿が残されている*⑮。
 宮口唯幸氏の話によると、宮口商店がハンカチの生産を終了してからの後年、宮口氏が仕事の関係で、現在の富士市域内の旧根方街道の須津地区や海岸沿いにある田子浦地区などを回った際に、昔宮口商店の仕事の下請けをしていたと懐かしそうに語る高齢者に出会ったことがあったそうである。この逸話からも当時のハンカチ業の下請けが原町域を越えて近隣の地域まで広がっていたことがうかがえる。
 なお、これまで述べた紙ナプキンとハンカチの他に昭和時代初期になると、人絹工場が原に進出した。東京人造絹糸原工場である。東京人造絹糸は沼津、吉原にも工場をもっており、ある意味、沼津-原-吉原と東海道の旧宿場を繋ぐかたちで工場を形成していた。
 そして、沼津工場はステープルファイバー、吉原工場は人造絹糸、その中間地点にある原工場は、人造絹糸とステープルファイバーの原料である二酸化炭素を役割分担的に生産していた。今回はこの東京人造絹糸についてはふれないが、詳しくは拙稿「沼津における近代的繊維産業についての一考察-東京人絹を中心に-」(『沼津市博物館研究機用36』2012年)を参照いただければ幸いである。

6.原町製紙の昭和以降の歩み
 次に、原治勲近代産業化のシンボル的な存在であった原町製紙の辿った歩み、とくに昭和時代以降の会社の主なできごとを1996年版のものと思われる『原町製紙会社概要』(山本幸男氏所蔵)をもとに紹介することにしたい。

 明治33年2月-合資会社原町製紙所を創立(機械抄和紙及びコッピー紙巻き取り製造開始)
 昭和21年3月-株式会社原町製紙所となる
 昭和29年10月-興国人絹パルプ株式会社系列の興国衛三材料株式会社と提携
        衛生紙用原紙、紙おむつ、ティッシュペーパー、エアークリーナー用原紙等を製造
 昭和39年7月-資本金500万円に増資
 昭和41年10月-株式会社資生堂と取り引き開始
 昭和45年8月-資生堂ティッシュペーパー270W、85W等一連の新製品を製造販売
 昭和46年3月-資本金を1,000万円に増資
 昭和46年7月-加工工場、出荷部門を分離し、浮島工場を新設、移転
 昭和51年4月-新抄紙機ジェットホーマー導入
 昭和52年10月-全株式を株式会社資生堂に譲渡(株)資生堂の関連子会社となる
 昭和60年2月-アシタカ製紙株式会社を買収し加工部門として石川工場が稼働
        本社事務所を石川工場内に移転
 昭和60年3月-資生堂ウェットティッシュ発売
 昭和61年7月-石川工場にプライマシン1台を増設し、紙おむつ用原紙の増産を図る
 昭和63年2月-本社所在地を石川294番地の1へ変更
 昭和63年6月-資生堂パーラーミネラルウォーター発売
 平成3年3月-資生堂クレンジングシート発売
 平成5年4月-原町製紙所オリジナルティッシュ「ロゼ」発売
 平成5年6月-石川工場にミネラルウォーター生産設備を導入し、生産、販売の一体化を図る
 平成6年7月-ミネラルウォーターを化粧品原料として販売開始
 平成7年7月-オリジナル「富士山の湧水」ミネラルウォーター発売
   △その後、原町製紙株式会社は平成15年に解散した。

 以上紹介したように、この会社概要のパンフレットからは、原町製紙のとくに昭和から平成時代にかけての動向がうかがえる。原町製紙所は創業初期は水引紙やコッピー紙などを中心に生産していたのだが、この資料からは昭和20年代以降とくに衛生用紙や製紙工場ならではの水資源の活用したミネラルウォーターの生産などに力を入れてきたことがわかる。山本氏宅には、太平洋戦争後にアメリカ向けに生産された四角形のトイレットペーパーのレッテルが残されている*⑯。戦後経済が復興していく中で、戦時中は国策で軍需工場にされていた製紙業界は、出版向けの用紙や生活様式の変容がもたらしたトイレットペーパーなどの需要が高まりを見せ、その動向に対応した生産に移行したことがうかがえる。また、国内大手の化粧品メーカーである資生堂との結びつきが深くなったことが明らかである。さらに、同パンフレットの発行時期には、高級ティッシュペーパーやフェイシャル用化粧用具、家庭紙全般、紙オムツ用原紙、ミネラルウォーター(飲料・化粧品原料用)などの生産が行われていた。そして、抄紙能力は月産およそ200トン、売り上げ高はおよそ1,631百万円(1994年度)、従業員数は53名(1995年6月現在)であった。