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原町製紙について

7.原町製紙の終焉とその後について
 明治38(1900)年に近代マニュファクチュアの先駆けとして創立された原町製紙は、時代の動向に対応しながら、先に示した年表のように紙製品とミネラルウォーターを中心に生産してきたが、平成15(2003)年にその幕を閉じた。原町製紙の本社のあった石川工場は、ミネラルウォーターの生産を中心とした別会社に移行した。また、紙加工部門のながれは、以前からかかわりのある原町加工紙に受け継がれていくことになった。

(1)水資源を有効利用する旭産業
 原町製紙は、旧根方街道沿いの石川に、かつて石川工場を所有していた。現在その跡地には当地の水資源を活用したミネラルウォーターの生産を主に行っている旭産業が操業している。旭産業の会社案内パンフレットの会社沿革の項目によると、旭産業は1972年に富士市今泉にトイレットロール、紙製品加工販売を目的として工場を設立したことに始まる。それ以後、特殊シートや脱臭剤ポリマー入大人用シート製造販売やリサイクル事業にも進出した。そして、2005年に原町製紙より同社の石川工場を譲渡されるかたちで、旭産業の石川工場が設立され、清涼飲料水の製造販売を開始した*⑰。さらに、2008年には石川工場に第2ミネラルウォーター工場を新設するとともに、旧ミネラルウォーター工場を第1ミネラルウォーター工場としてアルミ缶充填工場に改造し、水素還元水の製造販売を開始した。その後は、静岡県知事の指定を受けて障害福祉サービス事業も手がけるようになった。最近では、生鮮食品の鮮度を保つ「鮮度シート」も生産している*⑱。
 現在、旭産業では、この愛鷹山系の地下水を水源にして、一般消費者向けや沼津市の防災対策用のミネラルウォーターなどをはじめ、大手化粧品メーカー向けの化粧水の生産を行っている。このうち、ミネラルウォーターの生産は、500mlと2Lの種類があり、年間の生産数は、概算で合計1千万本にのぼる。工場の敷地内には5本の井戸があるが、3本を使用している。井戸の深さは、約120メートルであるという。富士山系と愛鷹山系の伏流水は、バナジウムやカリウムなどのミネラルをバランスよく含み、弱アルカリ性でまろやかな飲み口で、常温でも飲みやすいという定評があるそうだ*⑲。さらに、煮沸と濾過の工程を取り入れ、化学処理は行わない。コストはその分かかるが、安全性に十分配慮した天然水である。その品質の良さは国内外から評価され、モンドセレクションで最高の金賞を受賞したり、「富士の恵みの水 あしたか天然水」として「沼津ブランド」に認定されたりしている。ちなみに、会社の門のそばにある事務室の建物の近くには、湧水を築山に設置した石の樋に流すように工夫した小さな庭園があり、来場の目と口に潤いを与えている。地下水ということで、年間を通して水温13度くらいに安定している。会社の方の話によると、夏場は冷えていて冷たく飲め、冬場は外気より水温の方が高いので、湯気を出して流れることもあるという。
 また、大手化粧品メーカーからの受注があるのは、コラーゲンのはたらきを助けると考えられているシリカなどが含まれていることや、薬事法の51項目もの基準をクリアしていること、大手化粧品メーカーが長年この地下水を使用し続けてきた中で、化粧品製造に適していると判断していることなどが主な理由であるという。この工場から化粧品メーカーまでは、専用の10トンタンクローリーで運ばれている。そして、化粧品メーカーでその水を調合して、製品にするという。

(2)加工部門の技術を引き継ぐ原町加工紙
 さらに、原町製紙のながれを汲む原町加工紙について言及しておきたい。筆者は沼津歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長とともに、石塚久美子社長のご協力を得て2回にわたり取材調査を行う機会を得た。それをもとに述べていくことにする。原町加工紙は、原町製紙のポケットティッシュペーパーの加工の仕事を以前より請け負っていた。原町製紙の解散とともに、紙加工の部門を受け継ぎ、独自の道を歩むことになった。原町加工紙では、富士宮市内の製紙工場で生産された原紙を加工して、箱入りティッシュペーパーやポケットティッシュペーパーなどを製造している。企業などからのピーアール用のロゴやコマーシャルが包装部分に入っているものもあり、ティッシュペーパー製品では、枚数や大きさ、パルプの純度などによっていくつかの種類がある*⑳。ちなみに、以前からかかわりのある大手化粧品メーカーからはポケットティッシュペーパーを月産約2万個を受注している(平成26年頃の数値)。中小企業ならではの発注者の細かな要望に対応できる柔軟性と品質管理の良さには定評があり、全国各地からの発注がある。

8.まとめにかえて
 これまで、原町における近代初期マニュファクチュアの芽生えの事例として、原町製紙の軌跡を中心に述べてきた。明治時代になって宿場制度が解体され、多くの宿場が新たな現金収入の道を模索する中で、殖産興業のながれを相まって各地でさまざまな産業が興った。原町地域では、素封家で近隣地域の原田製紙の経営に関わった経験をもつ益田稔や外国商務官勤務経験のある香谷志満男の二人の尽力のもとに原町製紙が誕生したのであった。そして、地道な製紙技術改良と特許登録、国内外の博覧会への出品・受賞を足がかりにした販路の拡大などの努力をもとに、確かなブランドとして地域に根づいたのであった。原地区に興ったほかの紙ナプキン業やハンカチ業などの産業も、試行錯誤、紆余曲折を経ながら地域の経済に貢献した。そのナプキンにしてもハンカチにしても国内のみならず、輸出という出荷形態をとっていたのであるが、原町製紙が製品の輸出を先駆けて行っていたことが、有形無形にこれらの産業に影響を与えていたことが考えられる。
 原町製紙自体は、時代のながれがもたらした経済の変容の中でその軌跡を閉じたのであるが、その一部は別の会社に移行しながら、独自の形態で受け継がれている、
 今回の調査の過程で、新しい時代に対応しながら、地域に産業を興すために躍動した地域の先人たちの姿を垣間見ることができた。ことに、岳南地区の近代製紙業の歴史を辿る際に、現在の沼津・富士の市域をまたいだ人的・物的なつながりがあったことの重要性を再認識した。さらに、今後の調査課題については、地域の方々のご教授をいただきながら取り組んでいきたいと考えている。