• ~紙の柔らかさと柔軟な姿勢とお客様のやわらかな笑顔を想像する~

原町製紙について

沼津市博物館紀要41

第1章 原町近代初期のマニュファクチュアの芽生え

    ー原町製紙の軌跡を中心にー  内田 昌弘    より 引用

はじめに
 江戸時代に東海道の13番目の宿場として、独自の文化圏・経済圏を形成していた原。文化的には白隠禅師や帯笑園など全国に名を轟かせるものがあった一方、「浮島が原」という湿地帯をかかえ、自給的な農業と漁業の他には、軸となるような産業は見当たらなかった*①。明治時代になると、明治維新のもとで諸改革が進み宿場が解体されると、宿場経済に依存していた人たちは現金収入の道を断たれることになった。原でも他の宿場同様に新たな方策を模索しなくてはならなくなった。このような状況の中で、家内工業的な繊維業や、静岡県東部地域では先駆的な製紙業などが起こった。
 本稿では、原地区の近代産業の先駆けとなった原町製紙の歩みをふりかえり、地元に与えた影響や足跡の一端を明らかにしていきたい。

1.明治時代の原地区の殖産興業
 明治時代になり、新たな時代に対応した産業の必要性が生じた中で、原では工業の近代化に向けていくつかのアプローチが試みられた。このあたりのいきさつについては『原町誌』などに詳しく述べられている。それによると、まず、江戸時代後期から地域内で自給的に行われてきた綿布織物が注目され、輸入した綿糸を原料とした零細な家内生産が始まった。だが、町内にしっかりと定着するには、まだ年数を要したという。
 明治38(1900)年になると、原地区の地元資本による製紙合資会社が設立された。そして機械抄きによる製紙業が開始されることになった。この会社が原町製紙である。
 この後、紙ナプキンをはじめ、複数の製紙工場が操業を始めるとともに、地元で「ドロンオーク」と呼ばれたハンカチ(ハンケチ)業が広がりをみせることになった。原町製紙は、まさに、原地域における先駆け的な存在であった。

2.原町製紙の誕生の背景
 原町製紙は地元の資産家である天野屋の益田稔氏と香谷志満男氏が中心になって創業した。『旧原町誌』には、この原町製紙のことが次のように紹介されている。
 「原町の中程に一大煙突が聳えていて年が年中朝から晩まで黒煙を吐いて、晴れ渡った富士の裾野に薄い黛を彩りつつあるものは、是ぞ原町製紙合資会社の煙突である。之で原町の大立物益田稔氏の経営に属する製紙会社である。明治三十八年十二月の創立で主として和紙を製造し、叉之に加工して調帯紙布等をも製造して居る。創立後日いまだ浅いが年と共に発展して現今では毎日十六人の職工を使役して居る。製造品中巻紙コッピー紙は外国人の趣向に投じ七千円以上輸出して居る。内地向の物は水引原紙、元結原紙巻紙等であって、水引原紙は東京、京都方面にかけ、先ず五千円に達せんとして居る。巻紙は二千六百円以上で東京から東北地方に売れ、元結原紙は信州、九州関西方面に売れ二千円以上に達している。更に特筆大書すべき当会社製造の巻紙及桜紙は畏くも皇太后陛下御買上の光栄に浴し陛下が沼津御用邸に御滞在の間は、御用品として上納しつつあることである。」
 以上のような記述から、創業後の経営は順調で各地に販路をもち、皇室にもその品質が認められていたことがうかがえる(なお、原町製紙の会社概要では創立は明治33年となっているので、本稿ではそちらにしたがうことにする。)。
 ここで、原地区に製紙工場が設立された背景について整理しておくことにしたい。次のようなことが考えられる。
〇明治時代になり、宿場制度が解体されたことに対応するために、東海道筋にほど近い場所に現金収入の得られる工場の設立への期待感があった。
〇後でくわしく述べるように、近隣の富士市域でも現金収入へのひとつの手段として、機械抄きの和紙工場である「原田製紙」が、その先駆けとしてすでに設立されていたが、原田製紙の経営が一時停滞した時期に支援にかかわったのが、原町製紙の創立者の益田稔氏で、支援の際の製紙会社経営の経験を役立てることが可能であった。
〇愛鷹山系の伏流水が地下から自噴している箇所が何カ所か見られる浮島地域一帯では、製紙業に必要な大量の水を得られやすかった*②。
〇手漉き和紙の時代から、愛鷹南麓で和紙の原料である三椏が栽培されており、機械抄き和紙の生産に移行した後も、原料の確保にある程度見通しがもちやすかった。
〇東海道線の原駅からさほど遠くなく、製品輸送の選択肢として鉄道の利用を視野に入れることができた。
 以上のようなことなどが背景にあったといえる。